ノビアパパはノビアさんのトイレ係

16 de Agosto 2011

悲しい報せ。

とても悲しくなるメールが届いた。
今はまだ呆然としてるので、これと言った感情が無いままキーボードを打っている。
彼此14年も前の話になってしまうけれど、1年半弱イギリスのブライトンというところで暮らした。
私はそこでずっとホームステイという形で過ごしていた。
長期滞在となると家の人と揉めたり自由を求めたりで一人暮らしや友人とのシェア暮らしを始める子も多かった中、私はそこのランドレディーととても良い関係を築けたし、とても過ごしやすい環境だったので出て行く理由をこれっぽっちも見つけることなく快適な暮らしをさせてもらった。
その期間、彼女の私生活にも人生に於いてのめちゃくちゃ大きな転換期があったりで悩みを聞いたり慰めたり、多分既に自立していた娘たちと同じ世代だったので娘のようでもあったと思う。
そんな彼女とはそれからず~っと手紙のヤリトリだけであった。当時はネットなんて無いしね。

そして、9年前に一度再会したのだけれど、泊まらせてもらえないか?と尋ねるのを躊躇してしまったままイギリスに向けて出国してしまったので、飛行機が空港に着いてから初めて電話をかけてみた。(まだ彼女はメールアドレスなど持ってないときだったし・・・) そうして、連絡した翌日お茶しにちょこっとお邪魔したのだけれど、「何でもっと早く連絡してこなかったんだ!?来るってわかってたら、絶対泊まってもらいたかったのに」と言われて、あぁ、しまった変な遠慮せんかったら良かった・・・と思った。 楽しく会話していたら彼女が「Masa'sRoom」という単語をしばしば出すので「何それ?」と尋ねると、私が去った後私が過ごした部屋はそれ以降どの生徒も使う事無く、ずっと「Masa's Room」と呼んでいたそうな。(ちなみに私は『Masa』と呼ばれていた。というか、初対面のとき「ぷりぃーずこーるみぃーマサ♪」と私が言ったからなんだけどw)
時間はあっという間に過ぎてしまって、「絶対また来るから!そのときはちゃんと絶対事前に連絡するから!」と別れたのが最後。
それ以降も手紙のヤリトリが暫く続いた後、やっと彼女もメールをするようになったということでメールでヤリトリするようになった。でも、彼女からなかなか返事は来なかった。

そして、そのうち彼女が体調を崩していた、手術をした、などのメールを受けそれからも数年ヤリトリは続いていたけれど、常に彼女のことは心配だった。彼女は私の体調をそれでも気遣ってくれていたし、震災の後もすぐに心配してメールをくれた。
一方通行のメールが多かったけれど、事情は一応察していたつもりだった。

そんな矢先、返事が届いた。

「あ、こないだ彼女の誕生日だったしカード送ったのが届いたからかな?」と思ってメールを開くと彼女の恋人からだった。

それは彼女の最期を報せるメールだった。
いつ、どういう状況でどうやって亡くなったかを伝えていた。

She was very fond of you and often spoke of you.

最後の方にはこの文章が書かれていた。
きっと本当にそうだったんだと思う。私は彼女のこと大好きだったし、彼女も私を好いてくれていたと思う。

「絶対また行くからね!」
本気でそう思っていたのに、行けてなかった。
会えなかった。

思い出はたくさんある。悲しいけれど、実感が無くてきっと涙はまだ暫くは出てこない。
もうちょっとこの呆然とした感覚が戻ってきたら彼女との思い出にどっぷり浸って弔うんだ。

カテゴリー

アーカイブ

アーカイブ

ページTOPへ

ページTOPへ